先週、久しぶりに金沢21世紀美術館へ行ってきました。
目的は、「死を民主化せよ Death LAB(デスラボ)」と「工芸建築展」です。
どちらも入場無料の展示でしたが、一方は「死」、もう一方は「工芸×建築」と、まったく別のテーマを扱っています。
しかしながら、この二つには同じテーマが掲げられているように見えなくもない。
これは意図的な展示だったのか。それともただの偶然で、私にそう見えただけなのか。
美術、アートは見る人によってとらえ方が違うところがおもしろい部分もあると思うので、「デスラボ」からの「工芸建築」で、自分は何を感じたのかを明らかにしていこうと思います。
「Death LAB デスラボ」が考える死と生の循環
デスラボとは、コロンビア大学が主催する「死の研究所」の名称で、都市における死の問題、環境や時間、空間といった街の多種多様な制約に対応できる未来の死のあり方を、宗教学や建築学、地球環境工学、生物学などを横断して探求しています。
「人はいずれ死ぬ」ことは時代も国も関係なく、普遍的であるにもかかわらず、生きている時代や場所、とくに都市では直面している変化もひときわ大きくなっています。
そうしたなかで起こっている死の文化をめぐる近年の変化は、日本だけでなくアメリカでも同様で、墓地という不動産のあり方、特定の宗教や家族という制度を前提とした埋葬や葬儀(日本でいうところの供養)に問いを投げかけ、新たな死のカタチを考えるときがきていることを思い知らせます。
そういえば、ジャーナリストの佐々木俊尚さんも、同じような問題提起をしていましたね。
少子高齢化が進み人口減になると、以前のように丁寧に埋葬し供養してもらうというのは現実的じゃなくなる。じゃあどうするかということですが、こういうところにも新しい宗教観が必要になってくるのでは。/高齢化進む日本で増加する「無縁遺骨」 失われる家族の絆 https://t.co/vdFVsXxGbJ pic.twitter.com/cXsZLuQH1O
— 佐々木俊尚 (@sasakitoshinao) October 30, 2018
こうした状況に正面から向き合っているデスラボは、未来の埋葬のカタチを構想。
そのひとつに、ニューヨークの都市環境に配慮し、死の生態系をデザインした「星座の広場」という建築模型がありました。
それは、自然葬を現代の文脈とバイオ技術から再解釈し、これまで個別のものであった死者への祈りを、星座のように集合する死に捧げ、個人への追悼だけでなく、いまを生きる私たちの過去を築きあげてきた先人たちへの敬意を象徴する記念碑的な存在としています。
「すべての死者が平等にいまを生きる人々とその未来を照らす光になる」というこの構想は、さまざまな民族・宗教が集まる都市において、民主的な死を生みだす必要性があることを示唆しているようでした。
そして、私が一番興味深く感じたのは、哲学、宗教、建築、環境、歴史保存といったさまざまな専門家を中心とした「死をめぐる対話」の展示です。
そこでは「墓地」や「墓石」をめぐる対話と考察もありました。
ある哲学者によると、「人は記憶そのものは保存できない。しかし、記憶する行為を保存できる」といいます。
残念なことに、私たちはずっと記憶を焼きつけておくことができないため、記憶を物質化、具象化して、忘れてしまうことを避けようとしてきたのです。
墓地や墓石のそもそもの成り立ちは、遺体を生活空間から隔離させる「環境」のために作られましたが、遺体の腐敗処理技術が進んだことにより、埋葬場所であった墓地と墓石は、いつの間にか記憶作業を呼び起こす聖なる空間として認識されるようになったと、それぞれの専門家は語ります。
技術がすすんだことで「死」を隔離する必要がなくなった現代の私たち。
その死と埋葬を、さらに「いまを生きる人」へ、過去と現代、未来をつなぐ祈りの場所として残す可能性を最大限に生かせるか否か。
それが埋葬にたずさわる私たちの大きな課題であり、可能性なのではないか。
これまで自分なりに考えてきた「死」と「時空間」と「人」というテーマが世界の共通言語であり、そこで果たせるかもしれない役割の可能性にすこし興奮しながら、次の目的展示「工芸建築展」へ向かいます。
空間と物をとおして共鳴することこそ生きる本質
「工芸建築」とは、「工芸」と「建築」を融合させた新しいジャンルとして、金沢のまちが生み出した概念です。今回の展示テーマはこの「工芸建築」のコンセプトに、「人と時空間」をあらたに投げかけたものになっています。
『建築とは、外界と私たちを隔てるものでありながら、大地や天や神々や死者をその中に写すものである。それらと共にあることが「住む」ことの本質である』
ドイツ哲学者・ハイデガーのこの言葉に沿った「空間と工芸の本質」として展示されていたのは、巨大なおりん!
じっさいに、おりんを鳴らすことができたので、私も鳴らしてみました。
フロアに映る照明は音の波動を現わしているのでしょう。
この小さな空間に「静」と「動」が共存しているようで、それは「個」と「世界」が共鳴し合うイメージにもつながります。
「おりん」といえば、私たちは宗教的な器物として認識していますが、この「モノが物として本来持っている力」を見せつけられ、そこに建築という空間がかかわることで、さらにその可能性をひらいているように見えます。
むむ。これは「墓」というモノが持つ力を「墓地」という空間により「記憶」をうながし、「物語」を伝えていく可能性をひらくことと、同じ文脈といえるのではないだろうか。
次の展示物は「廬(ro) <外に内>」。
説明によると、『畳まれた四角い柿渋布をひろげ、竹の柱によって立ちあげられた空間のなかで、道具類が姿をあらわす。外(野外)に内(廬)をつくり、酒をのむ』
とあります。
この「外に内をつくる」感覚は、お墓づくりにつうじる部分が大いにある!
とくに、富山県でのここ数十年くらいのお墓の納骨堂まわりの構造は、扉があったり、鴨居があったり、方立(ほうたて)があったりと、まさに「外に内(家)をつくる」感覚に近い気がします。
また、他の展示の説明に「器物も建築も中のもの(人)を守る」役割があると書かれてありました。
そういう意味では、墓石も堅固な建築物であり、なかの人(遺骸)を守る目的、もしくは生きている外の人をその中の死者から守る目的があるとも捉えられるかもしれません。
でも、その守るものの定義が変わってくると、その器である建築物も変わっていくことは止められないのです。
たとえば現代の銀行は、通貨や紙幣を入れた「金庫」を守らなくてはなりません。しかし、通貨のカタチが電子マネーになっていくと、金庫は必要なくなり、電子データを守る部品と高度なネットセキュリティーが必要になります。
その「誕生と再生と勿体(ぶったい)」の表現として、こんなアクリルトレーの廃材でつくる未来の銀行の模型もおもしろい題材でした。
私たちのお墓も、同じように守るものの定義が変わることで、大きなものから小さなもの、または前述のデスラボでの展示のような「星座の広場」としてカタチを変えていくかもしれない。
ただ、未来的思考だけではなく、人間の原始的で荒々しさを持った建築、自然との対話の延長にある工芸について教えてくれることも忘れていません。
展示品は撮っていませんが、『人間にとってもっとも原始的な手法のひとつ、「掘る」をもとに、「削り出す」「磨く」という手法で、素材と人をつなげる』という説明があった「うつわⅡ」。
墓石はまさに、この「掘る」というプリミティブな行為に、原石を採るという自然との対話、それを削り出して、磨き上げる行為で自然素材と人をつなぎ、さらに祈りをのせてきた工芸であり、建築といえる気がしてきます。
最後は「おみくじ」。
手漉きの和紙を使用し、奄美大島の植物で染め上げたおみくじを結んで作った、冬の兼六園を思い起こす雪吊りのような形態。
来館者もこのおみくじを結べるようになっていたので、さっそく私も体験しました。
おみくじとなる和紙に自分の願いを書き、それを結びつけます。
細い木片をつなげているので、結ぶときは少し揺れるのですが、その揺れが、長い歴史といまを生きる私たちの願いが重なり合った動きのようで、神秘的で不思議な空間となっていました。
物が語る「物語」をつくろう
死と埋葬は普遍的な意味を持ちながらも、それを行うのは生きている者たちである限り、死と埋葬のカタチは時代を映す鏡となっています。
これまでの形式や定義が時代とともに少しずつ変容しながらも、死に埋葬がついてまわる以上、私たちが何らかの方法をとらなければならないことには変わりがありません。
死と埋葬の未来の可能性と、その本質を研究している「デスラボ」。
工芸と建築の境界を融合させ、物と人がともに歩んできた時空間をしめした「工芸建築展」。
ここから見えたテーマは、「時間」と「空間」という制限のなかで、「人」はいかにそれらを包括し、自由に生き、死ぬことができるのか。そして未来へつなげていける物は何なのか。
たっぷりと考えさせられた今回の金沢21世紀美術館での展示。
「工芸建築展」は終了しましたが、「デスラボ」は来年の3月まで展示されているので、ぜひ立ち寄ってあなたの何かを感じとってみてください。
“私たちは「死」と「埋葬」をどうしていくのか 金沢21世紀美術館で想いをはせる” への 1 件のフィードバック
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