11月のはじまりの今日。
白雪山善巧寺さんで行われた「ほっこり法座」に参加してきました!
今日のご法話の講師は飛鳥山善興寺のご住職、飛鳥寛静さん。
なんと住職のご祖父母さまは、生前の棟方志功と親交が深く、善興寺には彼の作品が残っているそうです。
さて、法話のお題は「信じられないものを信じる」。
私たちが信じているものをあげるとすると、家族、友人、お金、仕事…と自分を取りまくあらゆるものが思いつきます。
また同時に、私たちは自分自身そのものを信じています。
いのちを感じるのは、身体を信じているから。みな、自分自身をあたり前として信じているのです。
ただし、その信じている自分自身(身体)は、いつか壊れていく運命にあります。
「信じていた身体=いのち」は、いずれ終わる。
ということは、人生とは信じていたものを失っていく過程であり、私たちが今信じているものは、ほんとうは信じられないものなのです。
または、仮のなにかを信じながら生きているのが私たちといえます。
信じていたものが、信じられないものだったと知ったとき。
そのときに、「呼んだ?」と現れてくださるのが阿弥陀さま。
全部信じられなくなったそのときこそ、阿弥陀さまは本領を発揮して、私たちに「大丈夫だ。ここにいるよ」と伝えてくださるのです。
ただし、浄土真宗の開祖である親鸞聖人は、この信じることにある警鐘を鳴らしています。
ご住職が黒板に書かれた言葉はこの通り。
罪福(ざいふく)信ずる行者は
仏智の不思議をうたがい
疑城胎宮(ぎじょうたいぐう)にとどまれば
三宝に離れたてまつる
どういう意味かというと、自分の信じる罪悪や福徳、たとえば「バチがあたる」といった気持ちからの信心は、阿弥陀さまを信じていないことであり、浄土に行ったとしても、そこは仏もいないし、仏の教えもなく、教えをいただく集まりもない、ハコものだけは立派な場所に行くだけだ、という教えです。
私たちが考える善悪は、阿弥陀さまの本願とは比較にならない。そもそも阿弥陀さまは罰を与えないし、それは私たちの考える基準のものなので、そのレベルでお念仏を唱えて浄土を願っても、阿弥陀さまの作った真実の世界には行けませんよということです。
この教えを絵で表すとすると、こんな感じでしょうか。
そして、思いました。
『お浄土をこの世に置き換えたとしたら、私は今、疑城胎宮にいるな…』と。
なぜならここ最近、私はつねにイラ立ちと背中合わせだったから。
その理由がまさに周囲にたいしての不信感から発生していて、「私の考えが正しいのに、その態度はおかしい。こうするべきだ」といったもの。
青いワクが「信念の世界」だとしたら、私はそのなかでもさらに自分を強く信じている黄色のワクの世界にいて苦しんでいるという状況。自分を信じるあまりに、その外にある世界が見えていないのです。
「不幸」とは、自分以外を信じられない不信感がもたらすものかもしれない。
実はこの法話を聞きながら、私はたまたま前日に観ていた映画「素晴らしきかな、人生」を思い出しました。
オスカー常連の俳優たちが集結した、2017年に公開された映画です。
主人公はウィル・スミス演じる、成功をおさめ、人望もあるハワード。しかし、彼の人生は娘の病死をきっかけに、一気に転落してしまいます。
娘の死のあと離婚をし、うつ状態になっているハワード。そのせいで会社の売上は落ち、買収話が持ち上がります。今後を見とおした仲間たちは、なるべくよい条件が提示されているうちに買収を進めたいと考えますが、そのためにはハワードのサインが必要。
彼らに心を閉ざしたままのハワードを説得できない仲間は、彼に責任能力がないことをしめすために、ある手段を使います。
それは、彼がこれまで信じていた「愛・時間・死」という抽象概念にたいして、娘を失った怒りをぶつけた手紙を書いたことを利用するのです。
それぞれの概念を舞台俳優に演じさせて、それらに対するハワードの反応をとらえ、彼がまともではない証にしようとします。
家族を失い、会社を失い、仲間を失いかける。
ハワードは、これまで信じてきていたものをすべて失ってしまったのです。
ちなみに原題は「コラテラル・ビューティー / Collateral Beauty」。
映画のなかでは、「幸せのおまけ」と訳されていました。
この映画は、「愛・時間・死」という人間すべてに共通する要素のすべてを失った(と思った)ときに、何が残るのかということを、ハワードとともに見つけていく展開になっています。
そして彼だけでなく、じつは彼の仲間たちも「愛・時間・死」のいずれかに悩んでいたのです。
しかし、ハワードの離婚した妻・マデリンだけはちょっと違います。
彼女は娘を亡くした直後に、ある老婦人にこう言われました。「幸せのおまけ(コラテラル・ビューティー)が必ずあるから」。
最初はその意味がわからなかった彼女ですが、娘の死から一年後、このような感覚におそわれます。
「私は世界とつながっている!」
そして気づきます。この、世界と一体化した感覚こそ、悲しみのあとにある「幸せのおまけ」なのだと。
娘への喪失感にさいなまれていたマデリンは、なぜ世界と一体化できたのか。
なぜ、その感覚をおぼえたのか。
もしかすると、すべて失ったと思ったそのときに、それでも「大丈夫だ」という阿弥陀さまの願力のようなものが、「世界とつながっている」という感覚としてあらわれたのかもしれない。マデリンは、阿弥陀さまの本願と一体化したのではないのか。
そんなふうに、たまたま見ていた映画と、今日の法話がつながった気がしました。
いや、もちろんわかってますよ。
彼女は浄土真宗の門徒ではないだろうし、阿弥陀仏を信仰しているわけではないのに、法話とつなげて考えるのはおかしいと。(っていうか、仏教徒ですらなさそう。。)
ちなみにハワードのほうは、これまで生きてきたように、自分の力だけを信じて立ち直ろうとします。物理学に哲学、宗教といったあらゆる書物に救いを求めますが、それらの知識を得ても、それは結局自分のフィルターをとおした自力でしかなく、結果、自力では自分を救うことはできませんでした。
その点、妻のマデリンのほうは自分自身を一度脱ぎ捨てて、世界を受け入れたのかもしれません。
死をふくむ世界を許容したことで、彼女はあらたに世界とつながった。
「自分が信じていたものは、いつか終わりを迎えるが、その先にはなにかがある」というこの映画のテーマには、仏教的な、浄土真宗的な世界観と共通するものがあるんですよね。
死に扮したヘレン・ミレン演じるブリジットは、ハワードの前に「私は死よ」と現れるとき、ブルーの衣装を着ています。
ブルーは水が循環する様子をイメージさせることから、まるで、死後は浄土に生まれると考える浄土真宗とかさなるようじゃないですか。
ラストシーンは、世界に心を開いたハワードがマデリンとよりを戻し、大きな橋がかかっている公園を散歩する場面が出てきますが、その橋は境界を表しているようでした。
橋を境にこれまでの道のりは、自分が信じたいものだけを信じていた世界。
橋をとおり超えたこれからの歩みは、浄土の真実の世界。
映画は、これまで信じてきたものが信じられないものだと知ったとき、それを救うのは愛だと伝えている感じがしましたが、今日の法話からは、そこにあるのはもっと大きな愛、阿弥陀さまの愛を信じることを忘れるな、とのメッセージを受けとったような気がします。
そして自分をイラつかせ、苦しめていたのは他人ではなく、私自身だったことも。
法話を聞いたあとは、なんとなく「あれ、私ちょっと悟りに近づいたかも!?」と心が軽くなり、うれしく感じるのですが、それと同時に自分は自分が思っているよりも、ちっぽけで、かつ利己的で、なんて矛盾した存在なんだと知らしめられます。たぶんしばらくすると、自分の閉じた世界で、またもがいているはず(笑)
「素晴らしきかな人生」の登場人物も、それぞれがジレンマを抱えていたように、人間とはそんなものなのかもしれません。
でも、ご住職が「アンテナがあることが大事」だと言っていたように、その教えにふれたことが大事なのであって、何度も何度も学んでいくしかなく、その姿勢だけは忘れないようにするしかないのでしょうね。