冬将軍が冷たい風と雨を運ぶこんな日に読んだせいか、アドラー心理学をもとにした『嫌われる勇気』の著者である岸見一郎さんと小林麻耶さんの対談が、心に染みわたりました。
「大切な人を亡くしたとき…辛い思いの小林麻耶さんにかけたかった言葉【岸見一郎さん対談】
小林麻耶さんは、著者の大ファンで、このミモレ以外でも何度か対談されているそうです。
今回は、自身の体験をもとに「大切な人の死との向き合い方」について対談されています。
そのなかで、心に残った言葉を引用させてもらいます。
岸見:「たとえば亡くなった著者の本を読んだとき、著者がそこにいるように感じませんか?生きている人と対面して話しているような感じがしませんか?
そういう形で、人は不死なんです。「更新されないブログ」のようです。
そのブログを見たら、その人はそこにいる。そういう意味で亡くなった人は今も自分に貢献している、と思ってほしいです。」
ある程度、年をとると死別を経験することは避けられません。岸見さんがいう、亡き人と心で対話することは「更新されないブログ」を読むというたとえには、なるほどと思いました。
また、悲しみは変容するというところも、大切な家族との別れを経験した人は共感できるのではないでしょうか。
岸見:「死はただただ悲しいものではなく、感謝の気持ちに変わる日がくるだろう、そういうふうに思うのです。」
死は別れなので、悲しみは悲しみだけれども、時間はかかったとしても感謝の念は必ず起こってくるといいます。
韓国でおこなった講演でも、このような死との向き合い方には反響があったようです。
岸見:「だからあなたができることは少しでも元気になることだ、と。すごく元気にならなくていいから、少し元気になりましょう、と。それが日本的な言い方をすると「供養」ですし、それを見届けたとき、これも日本的な言い方ですけど、亡くなった方は「成仏」する。だからあなたができることは少しでも元気になることだ、と話したのです。」
「供養」という言葉を調べると、「宗教的にうんぬんかんぬん」と出てきます。供養の「本来の意味」や「正しい供養とは?」というものは、他の方のブログにおまかせするとして、じっさいのわたしたちはその行為が宗教的であるかはさておき、漠然と供養とはこういったものだろうと捉えているのではないかと思います。
それは、岸見さんの言葉を借りるならば、「時間をかけて、悲しみを変容させていくこと」かもしれません。
悲しみの質が変わり、感謝になる。
こう考えると、わたしがお墓について抱く想いともかさなるのです。
「お墓は供養するためのものである」というのは、ほとんどの人がお墓にたいして抱いているイメージだろうと思います。
では、「供養とは?」となると、「供養は本来こうだから、こうしないといけないんだよ」と説明されてしまい、そうなるといきなりハードルが上がってしまうと感じる人が少なくないように感じます。
それを岸見さんが言うように、供養とは「時間をかけて感情が変質、または変容していくさまを体感するもの」と言い換えると、誰しもが自分ごととして実感できるように思うのです。
わたしは、お墓とはそれを助けるためのモノと空間であり、時間とともにあると考えているので、岸見さんの言葉に何か感ずるものがあったのかもしれません。
そういったことを表現したいと誕生したのが、「おはかの手帖」です。
この手帖に収録されている『墓ありじいさん墓なしじいさん』は、偶然にも「感謝」という言葉をお墓に彫る家族がストーリーの主体となっています。
悲しみが感謝に変わって、元気になっていくことを報告できる場所があるというのは、絶望が希望に変わっていくような可能性を感じます。
いまある姿が時間ともに変容していく。
生きるとはそういうことであり、姿カタチだけでなく、心のありようもそうである。お墓はそれを教えてくれるものであり、この対談ともつうじるものがあるように思うのです。