もし、「お墓って何のためにあるの?」と聞かれたら、何と答えるべきか。
とくにそう聞かれることもなく、これまでやってきましたが、いつ、どこで、誰にそう問われるかわからず、お墓をあつかっている限り、その答えを用意しておかないといけない強迫観念のようなものがありました。
そこで、もしそう聞かれたら、たぶん「人とのつながりのため」だと答えていたと思います。
今日の午前中までは。
というのも、わたしたちはお墓を建てるだけでなく、壊す仕事も受けています。すると、その「人とのつながり」がお墓を壊す要因になっていることに気がついたのです。
縁が切れると壊されていく運命を持つお墓
お墓に入る人。お墓を守る人。お墓に手を合わせる人。
そういった人たちが、一人、また一人といなくなるにしたがって、お墓は縁を無くしていき、「無縁墓」と呼ばれていきます。
現代では、そうなることがわかるとお墓を壊し、合葬形式の墓地に改葬する流れがありますが、なかにはそうなる可能性を残しながらも、それでも墓を残す人もいます。
この違いは、「人とのつながり」が消えることの恐れから生まれていると思っていたので、わたしたちはお墓を大切にしたい気持ちを養ってもらうためにも、「人とのつながり」を強調する必要がありました。
でも、それはもしかしたら逆なんじゃないかと気づいたのです。なぜなら、その繋がりの有無によって、墓が必要か不要かを考えないといけない逆説を生んでしまっているからです。
家族を持たないお一人さまであれば、お墓を持っていてもいずれ不要になる。持っていなければ、建てる必要がない。
人とのつながりの有無で、要か不要が決まる。
わたしたちが「強い」と思っているその縁は、実はそう刷りこまれてきただけで、思っているよりも脆い側面があるかもしれない。
「いや、家族の絆と縁は強い!血のつながりがないと今の自分は存在しないのだから」
こんな声もあるでしょう。もちろん、その通りです。でも、家族のカタチが多様化することで、「家族の絆が残っていると困る」という声もあるのです。
お墓が「人とのつながり」の象徴と見なすことは、一方でお墓は「脆い存在」だと言っていることにもなるのかな、というのが、最近の自分の実感です。
つながりと自己。自分と世界との距離
お墓の存在についての「答え」を探し求めてきた、これまで。
でも、答えは誰かの不正解になり、不正解と捉える人が多くなると、答えですらなくなってしまう。
だから、お墓は「答え」を与えるものでなくて、わたしたちに「問いかける」ものであると、その価値を再定義した方がいいのではないかと思ったのです。
これまでは、「つながりから生まれた自己の存在の証明であったお墓。これからは、「なぜ、どのように生きるのか」を問い、思考をうながす存在になるのではないでしょうか。
「人」や「縁」をとおして、自己の存在を証明するものから、自分と世界とのつながりが生まれるものへ。
それは、昔々の偉人のお墓を見たときに感じるような感覚に近いものかもしれません。
お墓がそんな存在になればいい。そうであれば、たとえ「無縁」になったとしても、命ある限り、その存在を大切にしようと思うのではないかな、などと思ったしだいです。
こう考えるにいたったのは、お墓にアート(美学・哲学)的な視点を持つ必要があると思ったからで、
また、最近の美術鑑賞での発見などもあり、
仕事をとおして考えることもありで、少なくとも私は、お墓をとおして思考することを与えられ、きっとそれを楽しんでいるのですね。