棟方志功といえば、日本を、いや世界を代表する版画家ですが、富山ともゆかりが深く、 戦時中には南砺市福光町に疎開していました。
浄土真宗が根付いた富山の福光という地は、仏教の精神に深く傾倒していた棟方にとっても、精神世界をより豊かにし、その後の宗教的な画題を生み出す源となった地であると言っても過言ではありません。
仏殿を荘厳する散華のように、自身の作品を華にたとえ、作品によって仏を賛仰する心地を述べていた棟方。
また、自身の作品に「○○の柵」と名付け、四国巡礼の際に寺々に納める回札である柵のように、一柵ずつ願いをかけて、生涯の道標を置いていく、無限に続く想いというのを、この「柵」という文字に込めていました。
福光町にある棟方志功記念館「愛染苑」前には、疎開時に家族と住んだ住居兼アトリエ「鯉雨画斉 りうがさい」があり、トイレにまで描かれていた棟方画伯の壁画がそのまま残されています。
以前、そちらに訪れたときに、棟方のお墓についてのエピソードもチラッと聞くことができました。
ゴッホに憧れて芸術家への道を歩み始めた棟方は、生前にそのゴッホの墓のデザインをそっくりそのまま摸して自分のお墓を作りました。しかしお墓の大きさは、ゴッホをも超え世界のムナカタになった誇りからか、少し大きく作ったといわれています 。
亡くなる前年に建てられ、墓碑の前面には「棟方志功 チヤ」と夫婦の名前が彫ってあります。
生前墓であり夫婦墓。そしてオリジナルデザイン墓ということで、かなり時代を先取りしているところはさすがです。
「没年」は、永遠に生き続けるという意味を込めて「∞(無限大)」と彫ってあります。
また、お墓の後ろには、こう彫られたブロンズ板がはめ込まれています。
「驚異モ/歓喜モ/まして悲愛ヲ/儘(ツク)シ得ス 不儘(ふじん)の柵」
棟方志功のお墓は、彼の最後の「柵」であったのかもしれません。
そしてその想いのとおりに、棟方の作品は、彼が死してもなお芸術という不屈の道を歩き続けていっています。
“道標のようなお墓 ~棟方志功の静眠碑~” への 1 件のフィードバック
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