新しい元号が決まったせいでしょうか。それとも、先日降ったなごり雪から一転した春の陽気のせいでしょうか。なんだか、あらたな時代が幕開けする期待感が日本中をおおったかのように感じるこのごろです。
さて、先日の悪天候での外仕事のせいで、身体が芯から冷えてしまったため、久しぶりに昼風呂をしに、近くの銭湯へ行ってきました。
4月になったというのに寒波が戻ったその日の銭湯は、ポイントデーということもあって、昼間からたくさんのシニアの人たちで賑わっていました。
働きざかりの40代のわたしの耳には、聞こうとしているわけでなくても、周りの元気なシニアの方のおしゃべりが自然と入ってきます。
「こないだ○○と墓参りに行ってきてねぇ」
仕事がらでしょうか、にぎやかな風呂場でも「墓」という言葉は敏感に聞きとれてしまいます。
「ふたりで、○○○のことを墓で報告したがやぜ~」
「あれ~、そうけ。それは良かったねぇ」
聞きとれない単語もありましたが、おそらく兄妹の誰かと一緒に墓参りをして、そこで喜ばしい出来事について語ってきた話をしているようでした。
以前、まったく別の場所で、これまたシニアの女性おふたりが話しているのが耳に入ったときは、墓の悩みについて相談しているようでした。
だから、「墓」というキーワードが聞こえたときは、「どんな墓の悩みかな?」と耳をかたむけたのですが、なんてことはない、ほっこりとする墓参りのエピソードだったわけです。
第2の人生がはじまったら、お墓の存在意義が変わっていく?
そういえば、最近のうちの事例として、いわゆるシニア、団塊の世代の方からのお墓のメンテナンスの依頼が増えています。
これは、お墓のメンテナンスをする時期と、墓守をしているかたの年齢がたまたま重なっているだけともいえますが、これまでの世間の流れはどちらかというと、団塊の世代は「墓ばなれ」の傾向がある、というものだったはず。
しかし、実際には「墓ばなれ」どころか、「墓は大切な存在」だと認識している人が最近は多いように感じるのです。
うちは、改葬にともなう「墓じまい」も請け負っているので、墓を維持する人、手放す人、どちらもお客さまです。
ですから、お墓に対する認識がどちらかに偏っているわけではないのですが、墓を維持する人、そうでない人、どちらの側にいる人でも、シニアの方はおしなべて、墓に対しての思い入れがあると感じています。
それはなぜか。
先ほどの銭湯でのエピソードのように、シニアライフが長くなることで、お墓の存在が、家族や友人、知人などのコミュニケーションツールになっているからではないかと思うのです。
お墓は、人とひとをつなぐ「ほっこり」空間になる
先日、宇奈月町の善功寺さんの「ほっこり法座」に行ってまいりました。(このブログでも何度かレポートしています)
今回の法座をされた、大阪からいらした女性僧侶・葭田先生は、ほっこり法座の「ほっこり」についてお調べになり、その意味をお話しくださいました。
「ほっこり」とは、あたたかいとか、ホッとするという意味の他に、「忙しいなかに一息つく」「少し休息をとる」との意味合いも持つそうです。
これは、日常に非日常をもうける、いわば「区切り」をつけるという意味合いでもあります。
葭田先生は、「世間にはいろんな「ほっこり」がありますが、お寺も「ほっこり」できる存在なのだと思います」とおっしゃっていました。
そして、わたしは銭湯での盗み聞きエピソードをとおして、お墓も「ほっこり」の一つなのだろうと思ったのです。
日常は、絶え間なくわたしたちを雑務へ追いやるかのように平坦に流れていき、いつの間にかわたしたちを疲弊させていきます。
その日常に、小さな区切りをもうけ、大きく深呼吸できる時間や空間を持つことが、100年人生を生きるうえで重要な意味を持つように思います。
長い人生に必要なほっこり空間。
おそらく、そこに必要なものは、人とひとをつなぐコンテンツの力なのではないでしょうか。
お墓のコンテンツ力とは?
以前、Twitterでもつぶやいたのですが、最所あさみさんが「note」に書いていた言葉に、ピンとくるものがありました。
❝コンテンツはそれ自体にも人の心を救う力があるけけれど、同じくらい、人と人とを再接続させることで安心の基盤を作る力もあるんじゃないかと思うのだ。❞
「コンテンツは人を再接続させる」
今、とくに若い世代ではSNSを活用し、コンテンツをとおしたコミュニティが生まれている時代です。
これは手法としては新しいように見えて、じつは人間的な活動のうえでは、とても普遍的なあり方なのではないかとも思います。
人が生きていくうえで、そして年を重ねていくうえで、人とのつながりが重要な意味を持つことは言うまでもありません。
ましてや、第二の人生が長くなるこれからの時代を生きていくわたしたちには、人との繋がりを持つすべを、いかに手に入れるかに着目する必要があるでしょう。
そして、それはすでにわたしたちが手にしているもののなかにも、場所にもあることを教えてもらった気がしたのです。
だから、わたしは、今あるお墓を大切にしたいとする心情には、墓に集う人とのつながりを絶たないため、または、その人たちとのつながりを再接続させるためであると考えると、シニアの人ほどそこに時間とお金をかけようとするのは、むしろ理にかなっていることだと思うんですよね。
余生がのび、そして技術が進み、わたしたちは先人たちよりも長い時間を生きることになるだろうと思います。それは、長い日常を生きることでもあり、いかにその日常を意味あるものとして感じることができるかが、人生の豊かさにつながっていくでしょう。
そういう時代だからこそ、「ほっこり」できる非日常的空間をいかに持つか、その空間に一緒に集う人がいることの意義を、わたしは「お墓」をとおして考えていきたいなと思うのです。