今回ピックアップした映画は、ナチスドイツ時代の暗部が現代にまで影響をおよぼした「コリーニ事件」です。
法廷サスペンス好きで、さらに歴史ものが好きな人は必見のこの映画。
もう一つの見どころは法律とお墓という、異質な二つの事柄が、最終的にいい塩梅で交差しているところではないかと思います。これにより、歴史的ストーリーに味わい深いさが醸成されているのです。
「コリーニ事件」の概要
舞台はドイツ。新米弁護士のカスパーが国選弁護人として担当する事件は、子ども時代の恩人であり実業家のハンス・マイヤー殺人事件。彼を殺害したのはイタリア人の老人、コリーニ。ドイツの模範的市民でもあるコリーニは、マイヤー殺害の動機について弁護士にも一切口を閉ざし、被害者と被告人の関係性も不明なまま裁判がスタート。このまま黙秘を続ければ最高刑にすすむおそれが。そんな中、弁護士カスパーは出てきた証拠品に見覚えがあった……。
二人の関係とその背景にあった歴史的事実、さらには戦後ドイツの不都合な真実をあばき、国家に正義を問うことになった法廷サスペンス。
戦時中、戦後、現代の正義に翻弄される被疑者と被害者(以下、ネタバレあり)
事件の要因は、1944年ごろの第二次世界大戦時中にさかのぼります。ドイツ軍の占領下にあったイタリア北部で、村人数十人がナチス親衛隊によって処刑。パルチザン(反ドイツ軍への抵抗勢力)とナチスドイツ軍にはさまれていた恰好の当時のイタリア民間人の犠牲という歴史的背景が、この事件とつながっていたのです。
コリーニは、子ども時代に目の前でナチス親衛隊に父親を殺された占領下の被害者であり、その指揮をしていたのが、コリーニによって殺害された実業家のハンス・マイヤーでした。
じつは、コリーニは彼を殺害する以前、戦後のドイツでハンス・マイヤーを住民虐殺罪で告発していたのですが、ある法律(「ドレ―アー法」)によってナチ関係者の戦時中の罪は時効が成立してしまい、彼は無罪になっていたことが判明します。
言いかえると、戦前と戦後の二つのまったく異なる時代の正義(と法律)により、コリーニは法律に頼ることをやめて、自分でかたき討ちをしたといっても過言ではないかもしれません。
そして、この映画の最大の特徴は、コリーニの罪を3つのまったく異なる時代背景から問うところにあります。
1つ目:戦時中の状況
ひとつ目は、ナチスドイツはパルチザンへの報復として、関係があったとみなした地元住民を処刑することを善しとしていた戦時中の状況があります。住民虐殺の被害遺族・コリーニと、戦時中にその罪を犯したハンス・マイヤーの関係性は、この異常な戦時下で生まれたといえます。
2つ目:戦後の状況
戦後のドイツは、ナチスによるホロコースト大虐殺を謀殺罪と問い、正犯だけでなく、協力犯を幇助罪として裁く自国の過去を反省する状況にありましたが、一方で、それに抗う勢力もありました。
戦後に裁かれるはずだった、ハンス・マイヤーなどの戦時中のナチスが犯した罪。その時効を短縮した「ドレ―アー法」が制定された1968年の状況もまた、コリーニとハンス・マイヤーに大きな影響を与えました。
コリーニは正義への失望を感じ、ハンス・マイヤーは自身のナチス親衛隊という過去を葬り、実業家への道をすすんで成功したわけです。ある意味では、戦後に制定されたその法律によって、現在の被害者と被疑者の関係が生まれたといえます。
3つ目:現代の状況
映画の舞台は2000年初頭(公開は2020年)。戦時中と戦後を経験した現代は、二つの時代を冷静に見直せる状況にあり、コリーニの弁護士カスパーは、「ドレ―アー法」の存在を明らかにし、その落とし穴を社会に問うことになりました。
物語そのものはフィクションですが、映画の原作小説の出版から数ヶ月後には、じっさいにドイツの法務省が調査委員会を設置し、まさに国家を動かす事態になったのです。
物語を完結させるアイテムとしてのお墓
コリーニ事件の裁判が終わり、彼の母国イタリアに向かったラストシーン。弁護団とともに今は亡きコリーニと彼の父のお墓を訪ねたカスパーは、コリーニの代わりに墓前で親子の無念を果たしたことを報告したかのように見えました。
お墓参りのあと、カスパーはその地で幻想を目にします。
それは、子ども時代のコリーニと彼の父の元気な姿でした。カスパーに気づいた子ども時代のコリーニ。
あの世で再会し、幸せだよと言わんばかりの親子の幻想を見たカスパーは、ようやく弁護士としての、また過去の線上に存在する現代を生きる者としての義務を果たせたかのように微笑みました。
法の役割とお墓の関係
この映画について憲法学者の木村草太さんが見解を述べていますが、「法の役割について」このようにおっしゃっています。
「(法の役割について)生々しい言い方をすると、
過去の失敗を記憶することが『法』の大事な役割なのではないかと思います」「法の背後には膨大な過去の失敗、そして、それを改善しようとする人類の取組みがあるのだと思います」
たしかに、法廷もののドラマや映画でも、膨大な過去の判例を調べるシーンがよくでてきます。この「コリーニ事件」も、過去の判例を現代の目で見て批判できたのは、その元となるものを継承してきたからです。
いわば法律は、過去の失敗の軌跡であり、その足跡を照らしながら歩く、未来を生きる人のための道標のような意義があるといえるのかもしれません。
木村草太さんの見解により、法律のこれまでの堅苦しさ、扱いづらいものというイメージが払拭され、一気に法律が身近な存在になった感があります。
お墓もいわば、過去の記憶を彷彿させる物であります。この映画で使われたように、過去と現代が時空を超えてつながるアイテムであり、その場所とともにある存在です。
法律が人々のおこないに沿って存在している身近なものでありながら、その扱い方に手こずるように、お墓にも負の側面はたしかにあります。お墓の維持や継承問題などがそうです。
しかし、法律もお墓も人間がつくり、その軌跡とともにあるものならば、人間の歩みが続く限り、法律もお墓も存在し、未来を生きる人とともにあるともいえそうです。
過去を今につなげ、今を未来につなげていくことが法律の役割、さらに人類の歩みであるなら、継承という運命を背負っているお墓も、まさに法律と同じ人類の歩みの象徴といえるでしょう。
映画「コリーニ事件」は、法律をとおして過去の記憶をどう生かしていくのかを現代に生きるわたしたちに問うています。そして、お墓も同様に、わたしたちのこれまでの歩みや軌跡を見つめさせ、どう生きていくのかを問う存在だということを忘れたくないと思うのです。