富山のライター・ピストン藤井こと、藤井聡子さんが初の単行本「どこにでもあるどこかになる前に。~富山見聞逡巡記~」を出版、その出版記念トークショーが先日開催されました。
会場に来ている80人強のほとんどが、すでに藤井さんを知っているか、彼女のファンで、新聞やSNSでの告知でイベントと著者、そして本の存在を知ったわたしのような人は少数でした。(里山社や古本屋さんのSNSで知った)
今回はイベントレポートではなく、そこで購入し、著者にサインもいただいたこの本の感想をしたためたいと思います。
居場所をさがして
富山で生まれ育った著者は大学卒業後に上京し、映画雑誌や音楽雑誌のライターになりますが、折しも出版業界は不況の嵐が吹き荒れ、不穏な空気が流れはじめた頃。故郷富山で薬局を営む母からの「家業を手伝って地元で落ち着け」という怒気こもった帰ってこいコールに根負けするように都落ち(著者表現を引用)し、富山に戻ることを決めます。
先行きの見えない東京で、何者かになるためのあがきに幕をとじた著者でしたが、一方で、「富山に戻るということは、いよいよごまかしがきかなくなる」事実に直面しなければなりません。
富山に戻り、薬局を手伝いながら、フリーペーパーのライターをするようになったことがきっかけで、地元で個性的に生きている人たちと出会う著者。彼らとの交流から、富山にも居場所ができ、ミニコミを出版するなどして自分の輪郭が浮かび上がってきたころ、富山市中心街にある半官半民で営まれるミニシアター「フォルツァ総曲輪」が閉館するというニュースが入ります。
映画好きということだけでなく、まちなかのミニシアターに集う人々とのつながりが日常の一部となり、自身もそこで富山での活動の集結ともいえるイベントを開催したこともあったため、著者は大切な居場所を奪われてしまう憤りを感じます。街が都市化していくことは仕方がないとわかっていても、人と人を結びつけ、文化を生みだす場所が消えていくのを黙って見過ごす自分を許せないと感じたことが、この本をつくるきっかけともなっています。
人がいるから場所が生まれる
本のなかで紹介されているお店やその店主たち、そして著者の身近な人や総曲輪界隈で出会った人たちの小さなストーリーと彼女自身の半生がないまぜになったデコボコさが、均質化していこうとする街の様子と対比するように描かれていて、そこがこの本のおもしろさであり、魅力です。
著者をはじめ、本に登場する誰かのどこかに、自分自身の残像を見てしまいます。そして、彼らの葛藤が自分自身のそれに重なり、彼らが発する数々のパンチラインがじわじわと心に響いてきます。
旧8号線にある「日本酒食堂」の店主の
「自分探しの旅に出て、自分を見失って帰ってくるパターンを繰り返しとった。ポンコツやろ?」
「どこにでもあるどこかになる前に」第5章 開かれた異界としてのドライブイン、日本海食堂 より引用
という言葉に、どこかホッとしたり。
富山で木こりをしながら48歳でデビューを果たしたブルースシンガーのW・C・カラスさんが、
「見切り発車でやる度胸が必要ですよ」
「俺は常に自分を疑ってるし、社会を疑ってますよ。疑わない奴にブルースは歌えない」
「どこにでもあるどこかになる前に」第7章 ワイルドサイドをゆくブルースシンガー、W・C・カラス より引用
と言えば、ポンコツの自分をちょっと肯定できたり。
著者の飲み友だちでもあり、街を知り抜いたカメラマンの島倉さんの言葉には、雑多で猥雑なエネルギーを持つ街の普遍性、そして商いをするわたしたちへの希望と真実があふれています。
「食堂街がなくなっても、大将と俺たち客さえいればいい。結局、店は人が作るもんじゃないけ?
「どこにでもあるどこかになる前に」第9章 ここでしか会えない人 より引用
そのなかでも俄然興味がわいたのが、薬局を開業して夫の借金を返済し、目前にせまった高齢化社会に向け、介護事業へと業務を拡大していく経営者となる著者の母上の半生です。彼女が娘である著者に富山弁で浴びせる𠮟咤激励の言葉には、感動すら覚えます。
「本をつくるのがおこがましいって言うけど、あんたはもう既におこまがしいが。人に何かを伝えたいって思っとる時点で、おこがましいが!そのことをそろそろ受け入れられ。そして恥をかけ!」
「どこにでもあるどこかになる前に」第6章 新世代カルチャー生む西別院裏、長屋界隈 より引用
細々と石材店を営む現実から逃避するかのように、「人に伝えたい」と発信しながらライターになりたい野望をもち、かと思えば、本業を盛り上げたい気持ちも捨てきれず「ビジネス!」と吠えたりと、年中こじれまくっている40代のわたしに向けて言われたようで、「すみません。恥のかき方、全然足りてませんでした!」と頭を下げたくなりました。
しかし、この母上の厳しくもあつい眼差しが、著者の他者へのあつい視点につながっているようにも感じます。
藤井さんの文章から感じる、彼女自身と本書の登場人物たちとの絶妙な距離感。これがとても心地よくて、ここに登場するすべての人に会ってみたい気持ちになります。
❝富山は一年のほとんどが曇天だ。快晴がないかわりに土砂降りの雨が降り続けることもさほどなく、雪も他県の人が思っているほどは降らない。❞
「どこにでもあるどこかになる前に」プロローグより引用
雪国というほどでもないが、突き抜けるような青空を見ることも少ない。そんな中途半端な富山をあらわしたのか、著者の心情を表現するためか、本の装丁は、東京時代の章は白いツヤありの紙が使われ、富山に戻るとグレーの紙に変わるという工夫が凝らしてあります。(富山での生活になじみ、生き生きしだすと、白とグレーの中間のような色の紙にまた変わる)
富山から出たことのないわたしは、富山の街が変化していくことに無関心でした。たしかに、総曲輪で働いていた20代のころに、そこにあったお店が消え、同じ場所にマンションが立ちはだかったのを見たときには呆然としたけれど、総曲輪から人がいなくなりはじめ、不景気から逃げるようにその地から去ったことを思えば、再開発は仕方がないのですから。
さらにさかのぼり、総曲輪にある喫茶店でウエイトレスのアルバイトをしていた学生時代。アーケード街を横手に入るあのほの暗い通りにあった隠れ家的なお店は、いまはグランドプラザのパティオに面しています。若く、青い春の時代をつつみ隠してくれていたあの空間は、ちょっと他人行儀なたたずまいで、まぶしい陽の光が指す空間へと変化しました。
どこかで見たことがある景色に慣れ、そこで働くどこかで見たことがあるようなキラキラした人たち。そんな街に、わたしたちは疑問をもたずに取り込まれていきたいのだろうか。
自分は何が好きで、何が嫌いなのかをわかっているつもりでいたけれど、じつは世の中の潮流に流されそうになっていると気づかせてくれた本書。
それも決して悪くはないけれど、自分にとってほんとうの価値はそれでいいのかと、もう一度、問うてみようと思います。
トークショー後に購入した本を持って並んだ人生はじめてのサイン会では、誕生日前ということでこんなサインをいただき、本を開くたびに吹きだすという、とても良い記念になっています。
雑多な自分を押し殺すことなく生きる、一人ひとりのエネルギーが自分たちの街をつくり変えていく。それは、決してどこにでもあるどこかや、どこにでもいる誰かではなく、そこにしかいない人たちの、ほんのり酒くさい息吹きであるということを、この本は教えてくれるのです。