先日、立山町のとある墓地へ仕事で訪れました。
冬の晴れ間だったので、向こう側に見える立山連峰がどんどん大きくなっていきます。
富山の墓地のおおよそ半分は、こうして立山連峰を背景にしているのではないでしょうか。
さて。せっかく立山町まできたのだからと、「そば処 おきな」さんで早めの蕎麦ランチをすることに。
こちらのお店は入り口からすでに趣があります。石畳が敷かれ、灯篭があり、また中に入ると、日本庭園をみながらお蕎麦をいただける、とても風流なお店なのですよ。
欄干灯篭がある雪の日本庭園に魅入られていると、お隣に座っていた二人組のご婦人たちの会話が何気に耳に入ってきました。
「今年は、かわいらしい雪やったちゃね~」
私はここで胸がキューンとやられましたね。
「かわいらしい雪」というのは、降ってもすぐに雪が解けて、大変じゃなかったという意味です。頑固な雪でなく、かわいらしい。
雪を擬人化している!?
その後、会話はこんな感じで続きました。
「夏になったら、あの木に葉がしげって緑色になるがやろうね」
このご婦人方は、ここにまだ現れていない季節について語っている!
会話はまだ続きます。
「あそこに花が咲いたら、また違う風景になるね」
何気ない会話のようで、じつは無生物である雪を比喩的に擬人化し、時間を超えた美を語っている…。
なんと文学的な…!
でもこういった会話は、おそらく富山の、日本のあちこちでされているはず。
雪が残る冬に春を想い、夏を想う。
夏に冬を想い、秋に焦がれる。
いま、ここにはない季節を想う。
あ、これは、「そこにいない人を想う」お墓と同じだ。
こうやって日々、心象風景を思い描く行為が、日本人のお墓を、先祖を大切にするという行為にいつしか結びついてきたのかもしれない…。
そんなことを考えていると、頼んでいたお蕎麦とおでんの取り皿が運ばれてきました。
やや、これは室町時代からある金継ぎではないか!
金継ぎとは昔からある日本独自の陶器の修理法で、欠けたところを金などで繕い、そこの部分にも美意識を見出すことです。
私たちも墓石のちょっとした欠けを目立たないように修繕することがあります。
一番見栄えが良くなるのは、新しい石でその部分を取り替えることですが、応急処置的に欠けを繕うことがあります。
そこには、今あるものを大切に使っていく「もったいない」精神があるのかもしれませんし、気に入っているものを直してでも使いたい想いもあるのでしょう。
私はこのお店で聞き、目にしたことに、お墓にも通じる「私たちのすべて」があるように思ったわけです。
それは、目の前には現れていない世界を、イマジネーションして再現する力。
それは、欠けたモノを新しい世界観をもつモノへと再現する力。
それが日本人が時代をとおしてつないできた「美意識」であり、それこそが大切にしたい心持ちなのではないかと。
もしお墓を守ることによって、こういった心情が育てられるのなら、それってすばらしい。
あたりまえのようにある四季から、美意識や心が育まれているように、あたりまえに存在しているお墓から、何となく言葉にはできない想いが育っているのかもしれない。
この日のランチは思いがけない発見ができました。
もしかしたら、その前にみた古いお墓に眠る方が道案内してくれたのかもしれません。
<過去ブログからの転載 2017/2/17>