2018年、最後の映画は家で観た「花戦さ」でした。
物語は信長の時代からはじまります。
権力者となった信長は、「芸術」のエッセンスを取り入れるため、茶人や華人を召し抱えます。
茶人はあの千利休、華人はこの映画の主人公となる池坊専好(いけのぼう せんこう)。今日の「池坊いけばな」の家元三十一世です。
応仁の乱からの戦乱で荒野と化していた京都。その頂法寺・六角堂の花僧として、花を生けるのが生きがいだった専好は、戦に敗れ、河原で死んでいった亡骸、一人ひとりにも花を手向けていました。
信長が池坊に花の所望をし、その役に命じられたのが専好。彼が岐阜城で信長に献上したのは、信長の勢いと性格を表すために好きな花材の松を大胆に使った、昇り龍のように大きく個性的な大砂物。
それを見た信長は大いに気に入り、秀吉をふくめた家臣たちにこう言います。
「武人たるもの、茶と花と人の心を大事にせえよ」
次の秀吉の時代になり、彼がブレーンとして重用した千利休との親交も深まる専好。しかし、秀吉の嫡男が幼くして命を落とした頃から、暴君としての顔が現れ、京都の町民をふたたび震撼させるようになります。
その極めつけが千利休の死。
それまで茶頭として蜜月期間を過ごしていた利休ですが、秀吉との溝が大きくなっていき、ついには自死へと追い込まれました。
そんな状況のなか、専好は利休の遺功をくみ取るカタチで、花僧として、六花堂の執行として、「花を持って世を正そうぞ」と、秀吉に立ち向かいます。
花は人の心、生きざまを表す
映画では、専好だけでなく、彼を取り巻く花を愛する人々から、たくさんの名言が飛び出していました。
「『茶』いうんは 飲んだらあとには何も残らんわけや。言うたら ほんのつかの間や。
けど、 そのつかの間こそ生きてるいうことなんやて。花の中にもそういうもんがあるはずや。
専好さんは、それを生けてやりたいんやて」
「池坊では一輪にて伝わるは多くより心深しと申します」
「花の中には仏がいたはる。宿る命の美しさを、生きとし生けるものの切なる営みを伝える力がある」
放っておくと朽ち果ててしまう花を生ける。そこに仏の顔が見えるから。その命の美しさを伝えるために生ける。
自然のままであれば、あとは枯れてしまうだけの花に、ふたたびあらたな生命を吹き込むのが生け花。天下人たちが華道に引き込まれ、彼らをサポートしたのは、そこに戦国時代を生き延び、華を咲かせた自身を投影したからなのかもしれません。
つかの間を生きる
戦国時代に比べれば寿命も倍に延びたとはいえ、それでも私たちの世は「つかの間」で、限りがあることには変わりません。
だからこそ茶と花の世界観に美を感じるのかもしれませんが、私は「お墓」も同じ意味を持つものではないかと思います。
石の悠久な時間軸にくらべると、私たちに与えられ時間は、ほんのつかの間。
枯れてしまう命、その生きざまに、ふたたび生命を吹き込み、繋いでいくのが「お墓」なのではないかと思うのです。
専好のように、花を持って世を正すとまではいきませんが、花を愛す心が人を愛す心であるように、墓を大事にする心が人を大事にする心であることを、今年も自分なりに発信していこうと思います。
2019年もどうぞよろしくお願いします。