以前、お客さまが亡きお父さまのことを語るとき、こんなふうにおっしゃっていました。
「ちょっと自慢話に聞こえてしまうかもしれませんが…」と、当時としてはかなりのエリートだったお父さまの軌跡をお話くださいました。
その話を聞いて、ふと思ったんですね。
もしかしたら、多くの人はこうして自慢話ができる人までを先祖として見なしているのではないかと。
良いことに限らず、悪い噂や恥ずかしい話などでもいいのですが、そういう今語れるエピソードが残っていると、かなり古い先祖であっても「自分の先祖」だとみなし、語れるものがまったく残っていなければ、おそらくお墓に入っている方で自分の先祖は終わりだと思っている気がします。
でも、ほんとうは先祖とはどこかで切れるものではなく、ツルのように引っ張っても引っ張ってもどこまでも続くもののはずです。自分の命は、突然ポンと飛び出てきたわけでなく、先祖という関係性の帰結にいる、いわばゴールであり、またここから始まるスタートでもあるのです。
いつかどこかで終わってしまうのかもしれないけれど、今はただ終わりのないすごろくを私たちはゆっくり進んでいるともいえます。
私がお墓の仕事をするようになってから、この業界は「お墓を大切にすることは、先祖を大切にすることだ」ということを、ずっと言っています。そして、墓じまいや改葬が増えてきている今は、これまで以上にそういう声が大きくなってきているようにも感じます。
でも、お墓と先祖を大切にすることをセットでアピールすることは、今は逆に「限られた範囲の先祖を大切にしましょうね」とも捉えられてしまう気がしています。
これまではお墓は今後も続いていく前提であったので、そういう心配はまったく必要なかったと思うんです。ここから永遠に続いていく願いがそこにあるので、お墓は連綿と続いていく命の証でもありました。しかし今、お墓は命が繋がる象徴ではなくなりました。
まだ漠然とした思いですが、お客さまの何気ない会話から感じたことは、お墓はまた新たな定義を必要としているのではないかということです。