今年の春から宇奈月町の善巧寺さんではじまった「ほっこり法座」。春にも何度か参加させていただき、シーズン2もはじまったというので、今回も法座と美味しいご飯を楽しみに参加してまいりました。
法座の大きなテーマは、もちろん仏教、とりわけ浄土真宗で、その後にいただくお寺ご飯は精進料理と決まっているのですが、毎回ご講師が変わり、お料理を作ってくださる地域の方も違うので、その都度新たな出会いだったり、発見があるというのが、このほっこり法座の魅力です。
せっかくこんな素敵な時間を過ごしたのだから、少しでもこれを記憶にとどめ、さらにこのブログを読んでくださる方の小さな発見につながればと思い、10月の1日と16日に聞いた法座の中から、心に残ったお話を記そうと思います。
手は「合わす」のでなく、「合わさる」という
1日の講師は、千葉の天真寺からいらした西原龍哉さん。
お話はある方のご相談のエピソードから始まりました。
それは、疎遠になっていた父を永代供養墓に納骨してほしいというご相談。
親子関係にわだかまりがあり、ずっと疎遠になっていたため、しぶしぶ父親の遺骨を納骨しにきたということで、納骨法要の際にチラッとその方を見ると、手を合わせようとしながらも、手を合わせることができない様子でおられたそうです。
なぜ、その方は手を合わせられなかったのか。
そして、手を合わすとはどういうことなのか。
これを紐といていくには「正義について」考える必要がありました。
私たちは誰しも自分なりの「正義」や「正しさ」を持っています。それを身につけるのが最も重要なことであるかのように、「正解」を探すのが仕事であるかのように、いつの間にかその正義を軸に物事を判断し、感情が動く、いわゆる煩悩に煩わされて生きています。
たとえば、この方の場合はおそらく「ひどい父親」という相談者の方の心の軸があったのだろうと思います。ひどい仕打ちを受けた父親に対して、身体がこわばり、手を合わせるべきか、合わせないでおくか逡巡する。
それはその人が持つ「正しさ」「正義」に沿った行動なのかもしれません。
でも、大切なのは正しさではないのだと阿弥陀さまはいっているというのです。
そこに集い、阿弥陀さまの慈悲に触れるための機縁を運んでくれている。
だから、手は自分の意志や思いで合わすのでなく、むしろ真逆で、自分をがんじがらめにしているその正義感から解放されて、自然と手と手が合わさるものであると。
これは今まさに自分が直面している「価値観が違う人たちと、どう合意していくか」の一つの解決方法でもあると思いました。
腹を立てている人の話を聞けば聞くほど、その人たちは自分たちなりの正義を貫くのに必死で、その価値観が同じ者同士で派閥を組み、価値観に添わない者に対して不信感を募らせていく状態。
そこにはそれぞれの「正しさ」があるため、交わることのない平行線になっています。だけど、それでは物事が進まず、つねに相手をジャッジしようとする冷たい関係性になってしまいます。
私はそれまでは、そこにさらに「自分の正義」という燃料を投下するのに必死だったのですが、そうではないのだろうなと気づいたのです。
「正しさなんてそもそも存在しない。100人いれば、100とおりの正義がある。正義を突き合わせてしまえば争いは絶えない。同意はできなくても、いかに互いを尊重しあうか。そこに知恵を絞るのだ」と。
私もあなたも自分の正しさを追い求めることそのものが正義になっていて、それに疲れ果ててしまっている。
それを阿弥陀さまは知っていらっしゃるかのように、「力を抜いて、自分の正義から一旦離れろ、そんなものはないのだから」と教えてくださる場面こそ、手が合わさるその瞬間なのかもしれません。
姿カタチのない仏さまが目指した姿とは
合わすのでなく、合わさる手。
その先にあるのは仏さまとなるわけですが、ではその仏さまって何?というのが、16日のお話でした。
浄土真宗の法座なので、仏さま=阿弥陀さま、となりますが、私たちが唱える「南無阿弥陀仏」、「なんまんだぶ」って、何なのさ?についてお話しくださったのは、富山市本誓寺の若林浄正さん。
そもそも、なぜ仏さまは「姿もカタチもない、音もない、匂いも味もしない」仏になられたのか。それは「言葉の仏」になられたから。
言葉で私たちに「ここにいるよ」と伝える存在になるために、見えない仏になられたというのです。
そんな見えない仏さまを私たちはどうやって感じるのか。見えない仏さまは何を伝えようとしているのか。それはあるモノと同じではないだろうかというのです。
それは、お母さんが子どものために作るお弁当。
しかも土日の、せっかくの休日のゆっくり寝ていたい朝に、野球に行く息子のために作るお弁当です。疲れているけれど、息子がしっかりと頑張れるようにと愛と願いをこめて作られたお弁当。
仏さまとは、そんなお弁当のような慈悲の現れであると。
「南無阿弥陀仏」には、仏さまの前では資格もいらない、完璧でなくても大丈夫。あなたはあなたのままで、そのままで受け止めるよという、やさしいお慈悲があるのです。
そう言えば、お墓にも「南無阿弥陀仏」と彫ってあるものがたくさんあり、私たちはそこに手を合わせているわけですが、何気にしているお墓参りも、愛と願いの慈悲を受け取れる場所であり、お墓に眠る先祖や大切な人は、その縁を運んでくれる媒体になっているといえます。
お墓参りをすると元気がわくのは、そのせいかもしれませんね。
「ほっこり法座」で自分の心に一番響いた部分だけをご紹介しましたが、仏さまの言葉や伝えようとしていることが、私のつたない表現や価値観というフィルターをとおして伝えてしまうことになるのが畏れ多いので、ご興味ありましたら、実際に法座の体験をされることをオススメします!
初参加の方も少なくないので、ぜひ、ほっこり法座で心もお腹もほっこりしてみてください。
→善巧寺「ほっこり法座」の予約フォーム。